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FEATURE

01

りんご作りの歴史

POINT.01

青森りんごの開祖、菊池 楯衛

日本におけるりんごの歴史は古く、平安時代の中頃(900年代)に中国から渡来したと言われていますが、当時の「和りんご」は粒が小さな野生種で、主に観賞用として育てられていました。私たちが食べているりんごのルーツとなる「西洋りんご」の栽培が始まったのは、明治時代に入ってからです。18701(明治4年)に開拓次官によりアメリカから75品種の苗木が持ち帰られ、1874年以後、内務省勧業寮がりんごの苗木を全国へ配布し各地で試作が始まりました。このとき、青森県へ配布された苗木のうち3本を譲り受けた弘前市の菊池 楯衛(きくち たてえ)は、青森県でのりんご栽培技術の基礎をつくった「青森りんごの開祖」として知られています。

POINT.02

飛馬りんごのはじまり

寒さに強いりんごは、高収益作物として明治後期から青森県内で栽培が普及し、東京市場のみならず中国やロシアにも輸出されるようになりました。一方、津軽平野の端に位置する相馬村でりんご栽培が広まったのは、昭和に入り大規模な農地開拓が始まってからでした。各地区でりんご研究会が立ち上がり、病害虫の防除や人工授粉技術の確立に向けて研鑽を積んでいたと伝わっています。

POINT.03

「飛馬」の由来

東京オリンピック開会直前の1964年(昭和39年)10月、村内の2つの農協が合併し、JA相馬村が誕生しました。相馬の地名にかけた「飛馬」の商標は、旧相馬第一農協時代から使われていたもので、ちょうどこの時『巨人の星』が流行っていたことから「ひうま」という読みが採用されました。

当時の統計によると、村内の生産者1戸あたりの栽培面積は56アールで、県内他地域に比べ小規模零細農家が多かったことが伺えます。それでも、りんご産地として自分たちの里を残していくという決意から、生産者、役場、JAが一丸となって品質向上に取り組みました。市町村合併により「相馬村」はなくなりましたが、JA相馬村の飛馬りんごは、その質の高さから今なお多くの方々に選ばれています。